トッペページに戻る 過去の考察ノート 02年12月 03年01月 03年02月 03年03月
過去の本日メモ こちらは短いけれど更新頻度が高い日記
#2003年10月24日(金)
プラネテスがアニメ化された。マンガ版とアニメ版では、設定もキャラの造形も性格づけもかなり違う。それ自体に対しては私は文句がない。まあ、マンガ版のタナベとハチマキの、大きなタナベと小男のハチマキという対比が失われたのは確かに惜しいけれど。三巻になって少しばかり内面的な描写ばかりが多くなってしまったマンガ版を危惧しているので、もっと実際的な宇宙開発現場での主人公たちの苦闘を描いてくれるといいな、と思っていたのである。 しかしながら、アニメ版第三話はさすがにちょっと…と思ってしまった。 「愛がありませんよ!」と叫んで、常識から逸脱した行動を取るのはアニメ版もマンガ版も同じである。セリフもほとんど変えてなかった。それなのに、何故、こうもアニメ版からは不快な印象しかうけないのだろう。 キャラ設定が違い、また、動かない絵と動く絵、文字で読むこととセリフとして音で聞くことの違い、アニメのほうがより奇矯さが目立つということは確かだ。 それに付け加える意味で、アニメ版とマンガ版での構造の違いがあげられるのではないだろうか? マンガ版は、主人公はハチマキと最初から決定されている。従って、大体において物語はハチマキの視点で語られる。デブリ屋という現状をよしとせず、深宇宙の恐怖と孤独の意味をしりつつも何処までも宇宙を進むことに憧れる若造の、行き詰まった心象風景の世界だ。 その中での、タナベの無茶苦茶な行動である。 タナベの無茶苦茶さは、宇宙に魅せられた人間が情緒を失っていくことを止めるブレーキだ。行き詰まったハチマキの世界の破壊者として、タナベは現れる。破壊者でもあり救済者でもある彼女をハチマキはすぐには素直に受け入れることができないにしろ、自分とは違う視座に不意打ちをくらうことになる。 奇矯な行動もセリフも、一種のカンフルのようなものだ、と言える。 それに対して、アニメ版はダブル主人公としてタナベとハチマキが登場する。従って、その両方にモメントがおかれたることになり、時に視点はタナベに移る。タナベ視点でのハチマキは大きな組織の中で、ある程度職業人として一本立ちはしている「わからずやの先輩」だ。だから胸が苦しくなるような焦りと憧れとに引き裂かれた苛立ちはなかなか伝わりにくくなってしまう。 そして、視点がタナベなので、タナベ自身が世界の破壊者として機能をしないのだ。世界が行き詰まっていない。ハチマキはすでに「答え」を知っている状態にある。タナベのいうところの「愛」は、ハチマキの心に届くはずもない。 ただ自分の「思い」、自分の信念ばかりを押しつける人間が、たまさかの幸運によってその未熟な行動が「間違っていなかった」とされる話になってしまうのだ。 もちろん、彼女の行動は、最後に大量の事務仕事に追われることになるというオチで、ただの甘い話になるところを幾分か救われるわけだが…。 それにしても、そこにいたる過程においての、遺言状と生命保険の勧誘さわぎは、「明日をも死んでいてもおかしくない仕事」としての緊張感を描くのには、逆効果だったんじゃないだろうか。タナベがハチマキの遺言状を見たあげく、「こんなのいけませんよぉ」と叫ぶ無神経さは、どうにもいただけないのだ。キャラ設定に未熟なだけじゃなくて無神経が加わったら無敵だ。後の行動の不快さが倍加する。 ま、まだまだ始まったばかりのアニメだし、これからいろいろと面白い展開になるかもしれないので、期待がなくなったわけじゃないし、これからも見続けるけれど。 同じ物語でも、こうも印象が違ってしまうことがあり得るわけで。原作付きのアニメってのは、ホント大変かもしれない。 アニメもマンガもできるならば、「宇宙開発」というものが現実に沿った世界、「夢」ではなく「理想」を掲げられる世界を描ききってくれることを、願うばかりだ。「理想」はそれに向かうものの灯台の役割をするが、「夢」は時として人の心を殺す。それは科学の分野においても言える。 |
|
#2003年10月10日(金)
舞台暗転 場面 静寂。やがて、遠くのほうで水音が聞こえる。誰かが閉め忘れた水道から漏れる水音。 規則的なその音がやがて、人のささやきに聞こえてくる…。 スポットライトがあたり、アナウンサーが登場。 (アナウンサー) さあ、皆様、お待ちかねの、4人のオルフェノクのみなさんによるタンゴをお送りします。 ささやきは、やがて歌になっていく。 ホース! |
|