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#2003年3月22日(土)
捜神

俺の屍を越えてゆけ―呪われし姉弟の輪舞 海法紀光著 ファミ通文庫読了。

今から4年前に発売されたゲーム「俺の屍を越えていけ」のノベライズである。
とにかくこのゲームは斬新かつ面白いゲームシステムに深みのある物語の添えられた名作RPGだった。いや、いまでも入手可能なのだから、過去形で語ってはいけない。

このゲーム、「天外魔境」シリーズのスタッフのゲームデザイナー桝田省治氏が手がけているだけに思い入れが深い。しかも、天外と同じ名前、効果の魔法(術)がでてくる。ジパングは登場しないものの同じ和風な世界観といい、天外の復活を望むファンにはとても嬉しいつくりだ。(勿論、オレシカはオレシカ。天外とは全く別のゲームである。)

朱点童子によって呪われたために、子孫を通常の方法では残せず、短い命をさらに戦うことでしか全うできない悲しい一族の物語である。感情移入をしたとたんそのキャラクターの死を看取らねばならないという非情のゲームシステムが、深く心に残る。

だからプレイヤーはあくまでもこの修羅の宿命を負わされた一族の目で物語を追う。そして否応もなくこの運命の元凶が何かに気づかされていくことになる。
このゲームは捜神の物語である。

実は、こういった一族そのものが主人公であり固定されていない物語のノベライズが出ると聞いて、私は耳を疑った。
現れてははかなく消えていったキャラのひとりひとりに、それぞれの思い入れがある。そしてその誰か一人を選ぶことがとても困難なのに。そこに固定された主人公を持ち込まねばならない小説にするのは…、と。

そうした私の杞憂はあっさりと覆される。
小説は、この一族が出現する前の物語であり、主人公はゲームにおける狂言回し役のイツ花、黄川人なのだ。
そして、ゲームでははっきりと語られることのなかったこの物語の始まるに至る発端を丁寧に解き明かしてくれる。

つまり、ゲームが人が神を捜す物語であるのに対して、小説は神から見た人の物語なのだ。視点を変化させることによって、同じ題材から違う物語を編まれている。この料理の仕方は大変に巧みだと思う。

神から見た人の姿は、愚かで、卑小で。痛ましく、はかなく。そして愛しい(かなしい)。
人の愚かさと哀れさを余さずに描く筆致がよい。そしてその作者の視点こそが、長い生に飽き、人の世界に関与(くみ)するのを倦んだ神々と重なる。
特に、幼い黄川人を育てる氷の皇子の姿の描写は「神」なるものの虚ろと、それでも人を完全に見捨てられぬものとしての姿を映し出して素晴らしい。

ただ難点が少しだけあるとすれば、昼子の描写である。血をわけた肉親をも裏切り、自らの同胞を犠牲にする行動に至る過程と彼女の心情とがもう少し書き込まれていると、ラストの深みも増したのではないだろうか。

かくして、神の物語は語られ、今度は人が神を捜す番となる。
…ということで、埃を被ったプレステがもう一度火が点って…。

#2003年3月14日(土)
二つの塔

ロードオブザリング 「二つの塔」を見た。

言わずもがなのことだが、三部作の中間点というのは一番難しい。
前作を見なければ、今回の内容を理解できるわけではない。
しかも前作同様、完全な終わり、完全なクライマックスを設定できるわけではない。
商業的にも前作を越えるのは困難なのは、あらかじめ定められたようなもの。

さて、「前作」も「原作」も知らない人間に、どうやって「二つの塔」を見せるか?観客を呼べるか?

三部作と銘打たれているこの映画が、ここに挑戦し、ある程度の成功をおさめていると思う。
正しくスペクタクル映画として、機能させることによって。
内容が完全にわからなくても、目の前の画像に圧倒することによって。

(そして、だからこそ原作のディープなファンにとっては、少しばかり不満な内容になったかもしれないけれど。)

細部にはいろいろと文句のつけどころはあるものの、前作同様、大画面で映画を見ることの快感を十全に味あわせてくれる作品となった、と思う。
私は手元に割引券があるにも関わらず、割引の効かない環境のいいシネマコンプレックスに足を運んでしまったのだが、その価値は十分にあった。

しかし、指輪は「スペクタクル」だけの映画には止まってはいない、
かなりダイジェストではあるものの原作の深い内容をちゃんと伝えるものにもなったと思う。

その結実を見るには、我々は静かに「王の帰還」を待つしかないようである。

かなりネタバレを含む感想になるので、別ページへ。

#2003年3月08日(土)
ハリーハウゼンで夕食を

仕事もそろそろ一段落したところで、貯まっていたDVDにやっと手をつけることに。
レイ=ハリーハウゼンの「シンドバット『シンバッド七回目の航海』The 7th Voyage of Sinbad 『アルゴ探検隊の大冒険』Jason and the Argonauts。amazon.com で購入。
こういうものが自宅でゆっくり見られるなんて、ああ、幸せ。いやあ、今さら、感想でもないんだが…。(昔はよくテレビで放映されていたモンだが、近頃の洋画劇場ではさすがにやらないのかな。)

動かざるものが動く。
サイクロプスや双頭の鷲・火を吹くドラゴン、骸骨戦士。青銅のタロスが。
それこそ生命を吹き込まれたかのように。
これだけで、世界は幻想の霧の中である。
ぐにょぐにょとし、少々ぎこちない動きが、余計にその異形性を際だたせる。
メタモルフォシスや動きそのものがはファンタジーを作り出す。
すでに高度な技術の特撮になれ、CGに慣れたこちらの目にも、ストップモーションの魅力は新鮮かつ楽しい。

ハリーハウゼン映画のもたらした影響は大きい。モンスターズインクで出てくる寿司バーなんてオマージュをこめて「ハリーハウゼン」そのものの名前がついているし。
そういったレスペクトを考え、このシーンはここで使われている、あそこで使われている、などと余計なことを思いながら見ていくのもまた一興。

#2003年3月01日(土)
私は如何にして世間体を心配するのをやめて、特撮を愛するようになったか

思い起こせば、7歳のみぎり、仮面ライダーは原作が石森章太郎だから見る価値があるのだ、と親に向かって言い放ったすげえイヤな小学生だった私。その頃はきっと世間体を気にしていたんだne!青いよ。青い。←いや小学生だし。

そういう言い訳をしないと見るのがちょっと気恥ずかしかったのが、昭和の時代の特撮。私の脳内ではかなり美化されているものの…
ぬいぐるみ丸見えの怪人を、えらく大きな炎を、模型そのもののメカを、台詞棒読みの役者を、えらいご都合主義のお話を、必死で脳内変換しつつ。親に隠れ、友人には沈黙を通して、ひとりではまっていた過去の私よ。安らかに眠れ。君の人生は後半において開き直ることができるようになる。

そういえば、ウルトラセブンをDVDで見たら、脳内美化がいきすぎていたことに気付いてしまった。幼少の私には、モロボシ=ダンは平成ライダー以上にかっこよく見えていたのに…。
ウルトラQを買って自分の中の神話を壊すのが怖くなってしまったじょ。

なにかを「好き」ということは、一種の弱みである。
他人様に「よいご趣味ですね」などと言われるような趣味は趣味じゃない。
カムアウトすることがためらわれるようなことこそ、趣味の悦楽である。(いや他人に迷惑かけるようなことはイケマセンヨ。モチロン。)まあ、自分の好きなことくらい、自分で決めたいもんである。

平成仮面ライダーやスーパー戦隊シリーズやらで、そろそろ特撮ファンだと言っても聞き返されることは少なくなったけれど。それでもやっぱり色眼鏡で見られることには変わりない。いや、近頃はまた別の色の眼鏡になったか。
お母様受け云々の取り扱いは、真剣にやっているスタッフに気の毒だと思うものの。
とはいえ俳優さんの人気でDVD等購入者が増えれば、お金がかかる特撮も次回作が期待できるのも資本主義社会のならい。

さて、こうやって、特撮ファンな駄文を書き連ねていられるだけ、よい時代になったと実感するなあ。