トッペページに戻る 前月の考察ノート 過去の考察ノート 最新の考察ノート
#2003年2月24日(月)
だれがドリーを殺したの? それは私、とテロメアが言った。 クローン羊が短命に終わり、技術への信頼がゆらいでいるらしい。 (もっとも上のいささか趣味の悪いダジャレのように、完全に短いテロメアが原因とは特定されているわけではない。念のために。) なにしろ、DNAが細胞の中で発現するメカニズムなどが、分子レベルでは完全には明らかになっていなさそうなので、動物実験が先行していることには、不安は覚える。エラーの多さといい、かなり危なっかしい。 勿論、私はクローン技術そのものは有益だと見ているし、生命倫理でどんなに縛ったところで、開発されて研究されていくベクトルを押しとどめられるとは思わないけど。 一方、フィクション系で語られる「クローン」のいい加減さは、そろそろ是正していったほうがいいとも思う。 たとえクローン人間ができたとしても、それは単に一卵性双生児の誕生を人工的にもたらすようなものだ。 「記憶」はもとより「性格」もなにもかも違う別人がうまれるに過ぎない。クローンを一種の不老不死の錬金術といった感じに捉えるのはそろそろやめたほうがいいんじゃないかなあ。 ホムンクルスの現代版。つまり神に逆らう異端の科学として、黒黒とした不安に塗りつぶされたおぞましく妖しいクローンのイメージが、実は目の前でつくられようとする新しい技術の持つ「本来の危険性」から逆に目を逸らせてしまうのではないか、と心配になる。 克服しなければならない「危険性」は現存するわけで。それは見つけだすためにはヒステリックでない反応が必要なのだ。 (ところで悩ましいことに、私はホラー絵を描いて、Alchemistなんぞという超アヤシイサイトを立ち上げている本人なのだ。うーむ困ったぞ…。いや、フィクションはフィクション。現実は現実、ということでひとつ(汗)。) |
#2003年2月17日(月)
3DCGムービーへの遠い道に、スライドショームービー編をアップ。これまで作成した静止画の一部をスライドショームービーにしたもの。 音楽に原子番号47のまるさんが、ゲーム塵骸魔京のオープニング用に作成された音楽を使用させてもらっています。 それにしても、ちゃんとムービーがネットで配信可能な時代。しみじみとその技術の進歩を思う。さてさて、これからどんな時代がやってくるやら、である。 |
#2003年2月14日(金)
「自然界の非対称性-生命から宇宙まで」フランク=ローズ著amazonを読了。「対称」と「非対称」とをキーワードに分子レベルから宇宙開闢までを比較的わかりやすく説明している良書である。 装幀がめちゃめちゃかっこいい。すべての科学書がこれくらい気を遣った美しい表紙になってくれると、サイエンス本ももっと売れるんじゃないかな。いや、私みたいに表紙買いしちゃう人間だっているし。 内容については、説明の範囲が広いので個々の説明が薄くはなるものの、ひとつひとつの解説は巧くわかりやすい。特に脱線してX線の発見などの科学史に言及しているところは、一種の伝記として読ませるものがある。 なるほどX線の発見もまた、他の有益な発見のいくつかと同様、偶然の産物だったわけだ。 もっともこういった偶然の発見という言葉を、なにもせずに向こうから飛び込んできた僥倖とみてはいけない。 この本の中で書かれているように、同じ現象を目の前にしても、よりよく「準備」された人間の手に「真実」は飛び込む。僥倖を僥倖としてとらえるだけの実力がなければ、新しい発見など為されない。 ところで、この本の中には、西洋文化において対称性こそ神と見なされていた、という記述がある。なるほど過去の科学者は何人か、「たったひとつの」正しい方程式を探し、それが美しい対称で描かれてることを望んできたのかもしれない。ニュートンとかはそれが高じて、トンデモ方面にいっちゃったわけで。 ただ日本の神社など文化そのものは非対称を好むが、それは神聖なる神の対称性を侵すことを避けるためである、などとと書いてあるのは、ちょっと違和感。「神」に「絶対」だの「揺るぎのない対称性」だのを求めない文化だってあるのだ。 自然物を注意深く観察すれば、それが決して対称なカタチをしていないことを気づく。 そういった自然そのもの-天地の華厳(あめつちのけごん)-を取り込むことを求めた宗教観では、自然そのものが「神様」だ。 実際日本の古代神道では、山そのものとか、ごろんと転がっている巨石そのものが「ご神体」だったりするし。日本庭園や建築における「借景」などという発想は、そういうバックグラウンドをもとにできたんじゃないだろううか 逆に唯一絶対の神に選ばれた種族として、荒れ狂う自然を足下に屈服させることを求めた宗教観では、反自然、すなわち「対称」こそ「神」となるんじゃないだろうか。天をもつかんとするゴシックの尖塔の美しい対称や、この本でもでてくる完全な対称型を重んじる西洋式庭園。対称や調和(ハーモニー)こそ神を記述する方法と、見なしていたのかもしれない。 などと、これはこの本自体とあまり関係ない脱線。 複雑な世界を記述する対称を追い求めた自然科学が、そろそろ宇宙は対称性の破れによって生じたと結論づけ始めているのは、確かに皮肉かもしれない。もっとも最初っから、非対称な自然との同化の哲学からは、自然科学は発展しなかっただろうけれど |
#2003年2月7日(土)
肺魚が陸に上がったとき。そういう瞬間があったのかどうかは別にして… 肺魚といえど、最初はそりゃあ、苦しかっただろう。 何世代にもわたって、おそらくは適応しきれずに凄まじいばかりの脱落者を出しただろう。 『なんで、この快適で食べ物も豊富にある母なる海を離れて、荒れ果てた大地などに赴かねばならないのだろう…。』 後悔したのか、そうでないのか。 ……いや、単に外敵に追われたり、食べ物を求めたりして、陸に上がっちゃって帰れなくなったってところだろうが。 …………要らざる感情移入はすべきではない。 しかし、とにかく、そのおかげで我々陸棲生物の今はある。 我々は身体自体の機能をいじることなく、宇宙への道を踏み出した。おそらくそこに現在の人類が適応しないのはわかっていながら。 道具の発展型である科学をもとに。それがほんのとっかかりだとしても。 人類の知を求める本能はファイナルフロンティアを目指す。 といっても、地球に住むほとんどの人にとっては、それはあずかり知らぬ夢だ。 我々人類が本当に宇宙に行ける準備が整っているのか。 現に地上には、争いは起こり、飢餓も、貧困も、悲惨も、何も解決していないというのに。 生活圏が広がったところで、新たな争いの種をまき散らすだけではないのか? 実際のところ、人類の種としての寿命が問題だったら、この母星ともう少し巧くつきあうことを考えたほうがいい。 まだ、我々はこの大地の、気候のメカニズムすら、完全に理解しているわけではない。 温暖化は急激にすすむ。気候の変動と、食料不足がくる。化石燃料はやがてつきる。 一方、必ず氷河期はやってくる。 目の前の課題は山と積まれている。 答えはでない。 星が美しいのは、空気の底からから見上げるからに過ぎない。 そこにいけば、現実の灼熱の水素とヘリウムの固まりを見ることになるだろう。いや、視覚で見ることすら適わないだろう。 また、我々の兄弟星には、すべて生命の痕跡すら見あたらないのだ。 だが、それでも新しい技術の卵は潰すべきではない、とも思う。 技術革新なんて、どっから生まれるとも限らない。そのフィードバックを近視眼で見るべきではない。 人類がもう少し賢くなれる日が、いつかくるかもしれない。きっと、いつか、だ。 その時に間に合うように、着実に準備はするべきなのだ。格好のいい話ではない。 地を這いずる努力でもって、人は天空(そら)に上る手段を得る。そうじゃなきゃいけない、と私は思う。 あ、プラネテス3巻への感想というには、離れすぎてしまった。 ハチマキ、結婚オメデトウ。 |