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#2003年1月31日(金)
先生…。

とある化学の大先生である。天才肌で知られる著名な研究者である。だから、本名出しちゃうと、非常にさしさわりがある。
現在もその分野で頂点にたつ大学に在籍している彼から電話。
「えー今度の論文別刷り代金の立て替えの振り込み先が、いつも使っていない銀行になっているんだけど?どうして?」
押っ取り刀で、関係部門に電話して原因追及。どうも債主コード(振り込み先のコード番号で記録している。)が3つあったらしい。
で、その債主コードのひとつの振込先を彼が変更していなかったようである。
「ということで、振り込み先変更をいたしますか?」
「いや、いいでしょう。どうせ、これから先はあまり使わないし。(←いや、だから放っておくのがまずいのでわ。)
ただね、この銀行のカードと通帳がみあたらなくなっちゃっていて、取り出せないのよ。」
「…………。」
「しかも、遠い他県の銀行だから、行って通帳を作り替えるわけにはいかないし…。」
「…………。」
「ま、なんとかなるでしょう。」と、電話は切れる。
私がおそろしいのは、最後に彼がこう言い残したことである。
「もし、どうしても取り出せなかったら、またご相談しますので。」

先生、それは銀行に相談してください(魂の叫び)!

#2003年1月25日(土)
お子様だから

龍騎最終回付近の怒濤の展開におされて、ついつい長文を連続で書いちゃいましたな。
いつもの暢気な進行でないことに驚かれた人もいるかもしれない、っていつ更新するやらわからないので日記とも呼べない考察ノートなので。おつきあいいただいた方には大感謝

それにしても、この幾通りにも解釈が可能ということ自体に苛立っているような感想も散見されるので少々びっくり。それ自体は駄作でも佳作の証拠でもないのに。
難しい命題には解はひとつではない、ということもあるのだ。難解だから名作、というのも当然間違っているけれど。

子供向けだからたった一つの正解に辿り着かねばならない、というのもナンセンス。エンデの作品群は駄作なのか?ってぇことになるじゃん。
特撮の過去作品がすべて明快な解釈をしえたとしても(まあ、勿論そうじゃないんだが…)「龍騎」がそうしなければならないという理由はどこにもないし。今は難解だったとしても、子供が将来において「アレハナンダッタンダロウ?」と思い返すことができれば、というか思い返す人間がほんの少しでもいれば重畳ということだ。

石森章太郎
は(あえて石ノ森にせず)はあの「ジュン」や「リュウの道」を描いた漫画家なんだし。そういった意味では故人の魂はしっかりと受け継がれている。

さて、龍騎を離れて、TVで「千と千尋の神隠し」を最後のほうをちょっとだけ見る。うーん………赤い。いや、その確認だけのために見たんだが。色温度設定をいじると、今度はなんとなく引き締めの効かない画面に。
こ…これはCGの描き手にして、AVヲタ見習いの私への挑戦か!ハイビジョン対応テレビの力はここに発現するのかー!。って、結局適当なところで調整諦め。ハイビジョン放送やらないかな。
ただテレビ画面は色云々ではなくて、なんとなく映画館で見たときより全体に冴えのない感じに思えた。
ちなみに「もののけ姫」は映画館の時よりも、テレビのほうがアラが目立たなくなった。

「千と千尋〜」は声優さん選びが前作よりも巧くいっていないような気がするが、如何。こっちのほうが問題のような気も。

どっかで、「宮崎アニメなんて子供だましですよ」、という一文にあう。私は子供だましでもちゃんとだましてくれるなら大歓迎なんだが、なあ…。「千と千尋〜」は納得いかない。劇場の時の感想と変わらず。

#2003年1月22日(月)
転変スレド、因果ハ変ハラズ

龍騎最終回についての一解釈
最終回、この終わりに至った経過-「何故ループが切られたのか?」について、ドラマ内部で語られていることはあまりに少ない。
解釈はどのようにもとれる。あえて制作者の側も曖昧にしているのだろう。
そこで、私の脳内補完のひとつを披瀝する。(ただし、この脳内補完はSPや映画がタイムベントの別時間と考えると破綻するので、テレビ版だけで考えている。)

手塚の死のシーンを思い出して欲しい。彼は「俺の占いがやっとはずれた…」と言い残している。
彼の占いの能力の一部が、タイムベントで残る記憶の残滓の作用と考えられないだろうか。
彼は繰り返される時間の中での他のライダーたちの死と破滅とを記憶していたに違いない。
そこではいつも最初のほうに死ぬライダーは龍騎だったのだろう。
しかし、本来の道筋であれば死ぬ真司が、今回は手塚の自己犠牲の行動により残ったことで、ループ世界は僅かに撓みはじめる。

そして、夏のタイムベント。手塚を助けることはできなかったにしろ、真司はわずかに記憶を残した。
また、北岡もわずかに記憶を残しているようだ。タイムベントによる時間の巻き戻しは、常になにもかもが同じにはならないのだ。
真司はここで、オーディンを一発だけ殴るということに成功している。絶対優位が揺るがないゲームマスターに一プレイヤーが抵抗を見せたこと。これもループ世界の撓みの一因となったかもしれない。

優衣は常に蓮と行動をともにしてきた。蓮は優衣に対してはひどく優しい。
自分の恋人が覚めない眠りに落ちる原因の肉親に対してであるにも関わらず。
ひとりぼっちの寂しい優衣にとって、その限りのない優しさは必要なものではあったろう。
だが残念ながら、それは優衣の成長を妨げる。

しかし今回に限って、今までの時間の中ではなかったファクター、真司の存在、その生き方が、僅かずつ優衣に影響を与えだしていく。

最初、「こんなことをするなんてお兄ちゃんとは思わない」と叫ぶ優衣が、最終的には「お兄ちゃんが幸せそうにみえないからライダーバトルを止めたい」と相手に対する洞察と思いやりを示せるほどに成長をするのである。
悩む真司の姿を見てこその成長である、と思う。

そこまでの成長を示すことができた優衣が、その先何度時間を繰り返したとしても、他人の命を犠牲にしての延命を受け入れることはない。神崎はそのことをわかっていながら目を背けている。
そして、今回、優衣は自殺によってではなく、自らの封じられた記憶を取り戻して消えていく。
目を背けても、背けても、その事実は彼を打ちのめしていったはずだ。

多分、優衣はここで初めて、時間を繰り返し、自分の生命に妄執する兄に、自分が兄を受け入れたことを語りかけたのだろう。
だから、長きにわたる妄執は浄化されることになる。ループ世界は崩壊することになる。
士郎ではなく、優衣が変わることによって。

詩人ジャン=コクトーの幻想的な映画「オルフェ」でも、鏡は異世界への入り口となっている。
ギリシャ神話のオルフェウスとエウリディケの悲劇を下敷きにしたこの映画では、鏡の中の世界は冥界である。
妻の死を受け入れることができない男の冥界行と悲劇。
それはそのまま神崎に重なる。妹の死を受け入れられない人間が、最後にそれを受け入れたときに、やっと世界はあるべき姿を取り戻す。

とはいえ、これは私のいささか願望が入り交じった解釈である。

真司が何のために戦うのか?がずっと主題になってきたテレビ版仮面ライダー龍騎の物語は主人公の死とともには49話で終了しているといっていいと思う。
鮮血を吐く生々しくも痛々しい死に様は、絶対に安易な方法で蘇ることがない、との制作者側の決意を見て取れる。
そして、それに続くように、主人公を取り巻くひとたちも、自分たちの信ずるもののために、生命を落としていく。
妄執に憑かれた亡者の作り出した悲劇のゲームに、幸せな結末などありえはしない。

優衣と士郎の存在を引き替えに現れる穏やかな世界は一種のカーテンコールだろう。

演劇におけるカーテンコールとは、なにか。
それはフィクションという夢魔の彼岸から、観客を現実にかえすための作業である。
有り体に言ってしまえば、このお話はフィクションであり、現実のいかなるものともリンクしません、という宣言だ。
だから、そこで観客は拍手をし、日々の生活に戻っていける。
あまりに救いのないこの龍騎の物語にはこの部分が必要であったのだろう。

また、私はこう思う。
この一見穏やかに見える世界においても、それが人と人の世界である以上、争いは起こるだろう。
真司はやはりもう一度傷つきながら、何かを勝ち取っていく生を送ることになるだろう。
ミラーワールドの干渉が起こる世界において、答えに辿り着いた真司である。
彼ならば、もう繰り返されることのない世界においても…。


#2003年1月21日(月)
情熱のベクトルが僕を貫いていく

続けて龍騎考察第二弾。作品としての欠点と魅力について

「神」の不在
龍騎
という物語世界にはデウス・エクス・マキーナ(機械仕掛けの神)がいない。
つまり、説明できない不可思議を容易に帰することができるものが欠けているのだ。
クウガにおける超古代文明、アギトにおける双子の神。いや大半のノンリアルのフィクションには、こういった「簡単な説明」が可能が人智を越えたものというのが介在している。
「超古代から蘇った破壊神」なり「宇宙人」なり「巨大コンピュータネットワーク」なり「人類そのものの持つ悪意の集合体」なり。ファンタジーにも大半は「神」の力が存在する。大抵の魔法は「神」によってその力を保証されていることが多いからだ。

しかし、ミラーワールドは何故か、ぽん、とそこに存在する。時間と空間の両方を歪めたり、現実世界に干渉できるにも関わらず、そのメカニズムはおろか作り上げたものさえも定かではないのだ。
たまたまそのミラーワールドに関わる能力を得たらしい人間は、実は親から閉じこめられ虐待された少女に過ぎないし、その彼女のために亡者となって危険なバトルゲームを組んだ人間も、疑似科学的な説明がほんの少々為されているにしろ、ただの人間にすぎない。彼はゲーム自体においては絶大な力を持つものの、世界への影響力自体はそれほど大きくない。(現に優衣が行方不明になったときに、自分で探せずに真司や蓮に探させていたではないか。)

このことは龍騎の物語に深みと雰囲気を与えると同時にたいへん分かり難いものにさせた。(多分前作アギトからの流れで、また「神様」登場では、ダブってしまうということだったんじゃないかと想像する。)
ライダーバトルのルール自体も。そして物語の最後のキーであるタイムベント(時間の操作)も、世界の再生をもはっきりとした説明をつけることができなくなったのである。

勧善懲悪ではない、ということ
神がいない。だから善神も悪神もいない。守るべきは自らの欲望。
ライダー同士のバトルという、およそ勧善懲悪の世界では許されざる設定を持ち込んだために、でてくる人間がすべて奇矯にして悪人という素晴らしい設定になってしまった龍騎。

しかも主人公は、その悪人さえ手にかけてはいけないという枷をはめられている。
考えてみれば主人公の影のが薄いのも仕方ないことだ。
そこで、本来、善が悪を倒すというカタルシスで保っているはずのアクションものでありながら、特撮の華である戦闘シーンとドラマパートが分離しがち、ということになってしまう。

またライダー同士の戦いも、仕方がないこととはいえ、結局のところなかなか決着がつかない。
時間切れが手伝って、ずるずると次にひいてしまうという結果になりがちであったことも、フラストレーションがたまる部分だった。

ループする世界の伏線
週一で1年間のテレビドラマという長丁場であることを考慮にいれても、この作品の構成は決していいものではない。
脚本家が二人でスイッチしながら構成していくというやり方自体に、問題がある。週ごとの世界観、キャラ像のぶれが、半端でなく物語への感情移入を阻害するものになってしまったからだ。

しかも、詰め込みすぎた物語は後半になって加速する。しかもテーマ性は主人公自身が何によってたつのか、というところに焦点が絞られてくる。

なので、最終回の一番のキーポイントであるはずの「ループする世界」であることの伏線が、夏の総集編も兼ねた「タイムベント」の回にしかないのだ。スペシャルや映画が、現在進行中のドラマと関連性があるのやらないのやら、もまったくあかされない。

この時間ネタの回が好きで、この伏線は絶対にどこかで使われるだろうと待ちかまえていた私のような人間ならば、ラストが単なる「すべてなかったこと」ではないのが理解しやすいけれど(それにまあSFではかなり前例がある設定だし)やはり4ヶ月前に伏線ってのは、連続ドラマとしては苦しいところではないだろうか。

それでも溢れる魅力
このように欠点と思われる部分を上げ連ねてきたが、実はこの欠点が同時に長所でもあるのだ。
なによりも13人(全部は登場しなかったが)のライダーたちそれぞれに個性を割り振って、それぞれのキャラに光る魅力を与えられたことは確かだ。
そして、それがキャラの一人歩き現象を招いた挙げ句、数々のストーリーラインの破綻を招いたとも言える。最終回付近の怒濤の展開は、次回をと期待させるベクトルを持っていた。

また「神」を設定しなかったこと勧善懲悪ではなかったことこそが、この作品のユニークさであり、強いメッセージ性を誕んだと言える。

さらに、外野からの想像にすぎないが、脚本の二人制はそれぞれの個性のぶつかり合い、意地の張り合いを作り、より高い質のドラマができあがったのではないかと思う。(片方が厄介だと思うのは私もだけど)


#2003年1月20日(月)
修羅の肖像

一年間「仮面ライダー龍騎」は楽しみに見た。
いや、ところどころに、今度こそ見捨てると叫んだような覚えもあるのだが…。それでも私にとって、ティガ以来、血の温度が確実に上がる特撮番組だったと思う。

最終回に確かに是々非々があるものの、それは別の話として。

私が一年間見つめててきた世界において、仮面ライダーを名乗る男たちは自らの欲望に殉じ、修羅道に果てていった。
これを私が受けとってきたものとして、かなりの脳内補完を交えつつ語ってみたいと思う。
(かなり長いし、いささか抹香くさい用語が頻出するが、ご容赦を。)




秋山 蓮「情」の人である。情のひとであるからこそ、非情の態度をまとわさなければ生きていけない人間だった。「情」に揺り動かされる彼は、それほどに心優しく、弱いのだ。
また、彼の行動原理が「情」であるからこそ、確定的ははずの原理が、他のしがらみ、すなわち真司との関係性、優衣との関係性によって「迷い」が生じてしまう。
それでも彼は「迷い」を振り切り、血の滲むような努力の果てに、願いを叶える。最愛の人の生命を取り戻す。
彼の望むとおり情に殉じることになるのである。
その結果が果たして恋人にとっての幸福か否かは別にして。

北岡秀一「欲」の人である。永遠の命を欲っするということは、現状の人生に満足を得ていない、ということに他ならない。
彼は自分自身で言うように、「金持ちで天才でカッコいいけど、それが何か?」と自らうそぶくように現状すべてを手に入れている。しかし、同時に彼には大きな欠落がある。物質による満足も、他人の賞賛もそれを埋めるものにはなりえないのだ。
彼が真に欲していたものはその欠落を埋める何かだ。だが彼にはその何かを探し求める時間はない。

実際頭のよすぎるほどいいはずの彼が、たとえ不治の病に冒されているとはいえ、望みを叶える確証もないライダーバトルに参加するというのもおかしな話だ。しかも、永遠の命など、どうやって叶えると信じられる。
その分がいいとも思えない賭に乗ることこそ、彼の心の奥底の空虚さを映しているといえる。

そして、その空虚を、真司や蓮や吾郎と関係性を結ぶことによりなにがしか埋めることができたのか…
彼は諦念とともにライダーバトルに興味を失う。そして、最後に自分に課した使命を前に、彼は燃え尽きることになる。自分が生み出してしまったに等しい怪物「王蛇」とけじめをつけるその前に。

浅倉 威「悪」の人である。この場合の「悪」とは、道徳的な「悪」と同時に純粋に強いという本来の意味をも含める。
闘争と暴力に身を置くことだけが、彼のすべてである以上、彼は平和な世の中に全く適応ができない。だからこそ、彼は飽くなき暴力への飢えと同時に昏い破滅願望とを持っていると思われる。
無力になったときに俺を殴れと令子に詰め寄る場面や、「少女と王蛇」の回で自身の生命の危険を一種の賭のように楽しんでいることに、その片鱗が見られる。
北岡との最後の決着をつけられないとわかったとき、彼は、明白な死へ向かって疾走する。
彼に行動の原理などない。その衝動のみが彼を駆り立てているだけなのだ。

香川英行「理」の人である。「理」から言えば、犠牲者をなるべく少なくするという方向性へ動くことが当然だったはずだ。俯瞰的な立場に立ち「理」でも物事を見るのならば。
その唯一の犠牲が、美しい少女であろうと、醜い化け物であろうと、その理には一部の隙もないはずであった。
だが、その彼の「理」には、実は自分自身では理解できない理論を構築した神崎への嫉妬が混じっていたことも否めない。彼は自分自身さえもそれが純粋に理から行動であると欺いていたが…。
そして一種の自家中毒のように、理で計ることのできない愛弟子の行動により生命を落とすのである。

東條 悟「幼」の人である。彼の行動を外見通りの成長した大人と考えればわかりにくいが、まっとうにしつけられていない3歳児に人を殺せるだけの大きな力を持たせたと考えれば、理解不可能ではない。
誰かにえらそうに指示をされることに我慢できず、自分の感情をコントロールできず、殺人を犯す。
自分の尊敬する人、自分を愛する人の指示には盲目的に従いつつも、その関心が全部自分に向いてないと知るや、短慮そのままに人殺しを重ねる。
またそのことを、省みることなく、自分に都合よく理論のほうをねじ曲げていく。
盲目的依存と、感情のままの行動。
その2つに導かれるまま、彼自身の思惑とは全く別のところで彼の望みは叶えられる。彼自身の生命と引き替えに。

佐野 満「愚」の人である。彼には覚悟もなにもなく、ちょっとしたかわったアルバイトのような気分で気軽に闘争に参加した。眼前の利にしか目がいかない彼は、その愚かさ故の悲しくも怖ろしい最後を迎える。
彼こそ他の極端なキャラクターと一線を画して、市井の人々、すなわち我々に一番近い存在なのだ。持てる愚かさ、傲慢さ、身勝手さすべてを含めて。

須藤雅史「貪」の人である。彼もまた自らの欲望にひきずられるままに行き、その欲望とともに滅びた人である。刑事という本来は奉仕を職とすべきにも関わらず、際限のない欲望に灼かれ、ただひたすらそれを貪ることに生きた。その彼が、自分自身が常日頃用いていた手段-モンスターに人を喰わせるという方法で自滅したことは、印象深い。
また、この死こそが、使役するモンスターすら「敵」であるとの厳しい孤独を提示したと言える。

手塚海之「智」の人である。彼の未来を見通す能力をもち、誰よりもこの不毛の闘いの先が見えている人である。先が見える故の不幸、それが彼である。
友人の意志をつぎ、その不毛の闘いをやめさせることが彼の命題である。その友人自体の思いへの疑いが彼に智の曇りを招くことにはなるのだが…。
それでも彼は結局最後まで「智」ゆえに、自己犠牲とともに死んでいくことになるのだ。

芝浦 淳「嗜」の人である。彼にとって人生は畢竟ゲームであり、才に恵まれた自分の幸運な人生を享受している。他者の痛みを感じることなく、すべてを見下す。そしてさらなる刺激を求め、ライダーバトルに加わったに違いない。
そして彼自身の思惑通りにゲームの面に新たなコマが生まれ、展開を早めたときに、ゲーム盤の上からコマと見ていたものから復讐されることになる。才に溺れる彼は自分がゲームマスターのつもりであったのかもしれないが、実のところコマにすぎなかったのだ。

神崎士郎「執」の人である。数多くの悲劇を振りまきながら、失われた妹の命のみを取り戻すことに妄執する。自分自身の現し身を失ってまでも、力を行使しし続ける亡者である。
その妄執はすでに、自分の愛するものの逆に不幸に巻き込んでいることすら、彼の眼中にはない。

何故なら彼はあの妹を失った瞬間から、ひとつも成長しできていないからである。「僕をひとりにしないで!」と叫んだその日から。
妹のためではない。彼は自らの煩悩のために、妄執に囚われ続けている人なのである。

そして…
城戸真司「義」の人である。
「義」とは何か。それは人間としてなすべきこと。人間として失ってはならないこと。である。
その「義」という言葉にさらに「正」を重ねなければならないとき、本来の「義」は力を失ってしまったのかもしれない。

目の前で泣く無力なものをほってはおけない。たとえさらに深い悲劇を招くとしても、徒に人の生命を奪い去ることができない。真司は最初から最後まで、同じ言葉を繰り返していたにすぎない。「ライダーバトルなんて止めたい」、たとえなんのためにであろうと無益に人が争うことを止めさせたい、と。

それは最初、争いを知らぬ脳天気な世間知らずの語る軽い言葉として発せられる。蓮を、北岡を、苛立たさせる甘ちゃんのお題目として。

しかし、真司は、争いに身を置き、殴られ、罵られ、血を流す。
悩み、もがき、苦しむ。「理」も「情」も「欲」も、そのすべても理解しつつ、理解するからこそ彼は懊悩に灼かれるのである。
そして、不幸に死んでいったライダーたちの無念を自分の痛みとともにする。

その過程を経て、同じ結論である「義」に辿り着いたとき、その言葉は重みは深いものとして、人の心に届き始める。彼自身の生き様が、北岡を蓮をゆさぶる。

そして最終的な回答に到達した瞬間に、彼は鮮血に吐きながら死んでいかねばならなかったのである。
最後まで少女を救うという「義」を全うして。
得も損もない。正しいとか正しくないではない。人間としてその場にいたから。すべての人を救うことができないとしても、今、目の前にある怯える少女を母親の手に返してやりたいと望むから。

決して解かれることのない矛盾に放り込まれた一人の未熟な若者の、不完全でありながらも、血まみれで辿り着いた回答がそこにある。

仮面ライダー龍騎はさまざまな心のぶつかり合いと、欲望の果ての修羅の死を描いた作品であると思う。
そして、最後に「義」の人が主人公であったことが、この作品をより深いものにしたと思う。

#2003年1月17日(金)
たわらの ねずみが コメくって チュー

職場のマックの調子が悪い。
起動後十分くらいたつと、何故かハードディスクへのアクセスを始めるようなカリカリ音が聞こえ、そのまま固まる。強制終了するも、強制終了パネルはでるものけれどそのまま固まる。
あと数ヶ月でこのパソともお別れのはずなのに、今頃ぐずられても困るなぁ。

おなじみの機能拡張のコンフリクトかな、とも思い、とりあえずシステムの入れ替えを。何度ともなく繰り返したルーティンな作業。ああ、こういう時にOS9はシンプルでよい。システムフォルダの名称を変えて保管しつつ、新しくOSをインストール。必要な機能拡張だけを、確認しながら入れていく。
勝手知ったる昔のOS。この感じが失われるからという理由でOSX移行を拒むひとがでてくるのはむべなるかなである。

だが、しかし。それでもOS9の調子のほうはもどらない。すべての周辺機器をはずして(なにしろ外部ハードディスクだけで3台つないでいる。)いろいろやってみるが、症状はひどくなるばかり…。

OSX起動ならば、なんとか固まらずに動く。
しかし、OSXで起動しても、なんとなくバックグラウンドでハードディスクへのアクセスは起こっている感じがする。OSXだからそれが前面のアプリケーションの動作の足をひっぱらない、もしくはひっぱっていても影響が少ない、ということのようだ。

うーむ。

で、ついにOSXでも9と似たような症状がではじめて、マウスポインターは完全に動かなくなる。
アプリを強制終了してもダメ。再起動してもダメ。完全にアウト。よくわからない。

で、マウス………盲点だった。ざぶとん全部もってってくれ←それは笑点。
(この時点で外見上はマウスには何も異常なかった。いつものように赤い光を発している。)

試しに同僚の光学マウスを借りてつなぐと、滑らかに動く…。

しかし、光学マウスって壊れることもあるんだにゃあ。メンテナンスいらずだと思っていたのに。メンテいらずということが逆に盲点になったのかもしれない。何しろ外見上ではまるっきり変化がないのだ。
どうしてハードディスクへのアクセス音が聞こえていたのか、どうしてOSを巻き込んでフリーズしちゃっていたのか…は最後までわからない。釈然としないけど、取りあえず直ったから、いいや。新しい光学マウスを購入する。

よくわからいけどとりあえず使えるから、まあ、いいや、って感じで私はパソコンを使ってきた。そうしないと身が持たない。とはいえ、つくづくブラックボックスに頼りすぎだよな、と思う。マックだから余計にそうなのかもしれないけれど。GUI慣れしちゃったユーザーにはそういう人が多いだろう。
もしかしたらどこかで同じように壊れた光学マウスで難儀をしている人がいるかもしれないので、考察ノートに記す。
それにつけても、決算が近づいて忙しい私の時間をかえせ。>マウス



#2003年1月15日(水)
帰る場所がここにある

近々読んだ本の感想を。

最果ての銀河船団<上><下> ヴァーナード=ヴィンジ amazon
どきどきする古典的な復讐ものを縦糸に。SF的ガジェットと多彩なアイデアとを圧倒的なボリュームで練り込んで横糸に。スペースオペラと単純に言うには、物語としての密度が濃密すぎる作品。ものすっごく面白かった。かっこいいオヤジ好きの私向きの小説(笑)
ただし、結末がかなりスタートレックシリーズっぽくなってしまうのがちと残念。

チェンホーの名の由来となっている鄭和は、15世紀に永楽帝の命で大艦隊を率いて南海遠征を行った人物の名である。大船団を組み宇宙へ乗り出す商人に相応しい。

風よ。龍に届いているか<上><下> ベニー松山 amazon
Hippon Super(ファミコン必勝本)誌上で連載されていたものを読んでいた懐かしい作品の復刊。徹夜さえ辞せずにはまっていた名作ゲームウィザードリィの世界が広がる。

人に取り付き記憶さえ複製する怪物ゼノなどのオリジナル設定も大胆には取り入れているものの、ゲームの世界観を壊さずに巧く利用しているところが、著者のウィズというゲームへの思い入れを感じさせる。しかも青春小説としての瑞々しさを失わないところが、この著者の本領。私は特にスケイル登攀までの前半が好き。

悪属性を持った殺戮マシーンのはずのニンジャが主人公なのに、心優しき熱血青年でしかない部分とか、闇の王であるバンパイアロードが、冷たい血を持つアンデッドを微塵も感じさせないところとか。ベタベタに甘いに結末とか。それも含めてジュブナイル小説の魅力に溢れている。

永久帰還装置 神林長平 amazon
文庫化。3行読んだだけで、ああ、「神林小説」とにやりと思わせる設定と内容。世界を操るものと、操られたくないものとの争い。そして鍵となるのは「ネコ」
とはいえ、映画ターミネーターをちょっと思わせるような苦い恋愛小説でもある。
それにしてもリクツっぽい恋人たちだ。えーちょっと議論はやめて、もう少し建設的に生きてみませんか?と提案したくなるくらいに。いや、神林さんだから仕方がないけど。

それにしても「敵」の名前がフヒトと来たもんだ。藤原不比等。日本史上もっとも成功した参謀にして黒幕。カタカナで書いてしまうと日本語(日本名)に見えない部分も含めて、なるほどと思う。


#2003年1月9日(木)
鳩が来る家

光文社文庫倉阪鬼一郎先生新刊短編集「鳩が来る家」の表紙絵をアップ

「鳩が来る家」という優しげな題名だが、まあ、倉阪ホラーがそのように終わるはずもない。私の絵も結構邪悪な妖気をまとわせたつもりだが、本の内容のほうはもっと濃密な血の匂いである。

その血みどろの幻視の世界への案内人の髑髏(しゃれこうべ)。無事のお帰りは保証しないので、どうかお気をつけて。

平和の象徴の鳩。実は私は鳩が怖い。蛇やゲジゲジや蜘蛛も百足も、そりゃあ側にこられればいい気持ちはしないけれど、「怖い」とは思わない。しかし鳥はどうも苦手だ。中でもとりわけ鳩の鳴き声と首周りの虹色の羽毛に恐怖を感じるのである。まあ、どうせ小さな頃に見たヒッチコック映画がトラウマになっているからすぎないが。

だからこの絵にはその「恐怖」の死骸をポオの「黒猫」の如くに塗り込めた。

これを描いている途中に鳩の悪夢に悩まされたのはいうまでもない。


#2003年1月6日(月)
年を改めて

cgiを利用した日記が壊れてしまったので、普通のhtmlの日記に戻すことに。壊したのは自分自身なのが情けない。ちょっと自分で弄っていたら変になってしまった。

消えてしまった過去ログも復帰。こちらに。今後ともよろしく御願い奉ります。

さて、昨年暮れも押し迫ったころ。近くのモールの家電売り場が改装してできあがった簡単なゲーセンに私は足繁く通っていた。通っているといっても、まあ、スポーツクラブに行く通り道だったからに過ぎない。キャッチャーもののぬいぐるみを横目でみつつ、たれぱんだが入荷されないことを嘆くだけなのが、いつもだった。

そしてふと見ると、白黒の生き物が…。あ、かがわせんせい…じゃなくてたれぱんだ!あぶない、って言ってクルマにひかれて英雄になるのはちょっとパス。もう一度よく見るとカンフースーツをきたスヌーピーである。呑気な表情がわりと可愛らしかったので100円を投ずると、思いの外簡単に採れた。これに気をよくしてもう一度。龍騎の3Dキャラのぬいぐるみに挑戦。こちらもワンコインで採れる。うーむ、もしかして、私は天才?英雄?といい気分である。

もっとも、そのぬいぐるみを見た配偶者には信じてもらえなかったのが残念だったのだが…。なにしろ最初に「いくら使った?」と問いつめるのだから失礼なヤツだ。

さて、その翌日。またスポーツクラブへの道。かっちょいい龍騎サバイブとナイトサバイブのビッグソフビが増えているではないか!。昨日のようにもしかしたら採れちゃうかも。というこの時点では甘い期待を胸にコインを投下。するとウソのように、龍騎サバイブが取れちゃったのである。

これがもうなかななかの出来映え。きれいな8等身でスタイルがよいためか、画面でみるものよりも遙かにかっこいいのだ。さんざ文句をいってきた龍騎サバイブのデザインではあるが、このソフビには魅了されてしまった。もう、その時点で私は得意満面である。見よ、私の腕を!配偶者!戦わなければ生き残れない!ゲットできない!

自宅に持ち帰ったこのビッグソフビ、早速配偶者に報告するが、さらに不信がつのっているようである。ううむ、疑り深いヤツ。まあ、龍騎サバイブがいれば、ナイトサバイブと両方ならべて「俺は死ねない、一度でも命を奪ってしまえば、おまえはあともどりできなくなる。」「俺はそれを望んでいる」ゴッコ(長い)がやりたくなるのが人情ってモンだ。明日は配偶者の目の前で、ナイサバを私の優雅な指先でゲットしてみせねば!

無駄遣いがもったいないと小言を言う配偶者をひきつれて、クレーンゲームの前。お、お目当てのナイトサバイブがとってくれ、とでも言うようにナイスな位置に…

………あれ?

ほとんど絶妙といえる角度や場所にクレーンが入るのだが、何度やっても持ち上がらない。いや、ほんんの少しだけ持ち上がるけれど、ぼっとりすり落ちてしまうのだ。

………今日はちょっと調子が悪かったかも…。

背後の極度に冷たい視線を感じつつ、しきり直しをすることにする。取れないとなると余計にナイトサバイブがほしくなるのが人間というものである。龍サバよりかっこいいし。マントひらひらだし。

…………で、結局出費のほうは…(怖)。

最終的に、ギブアップ(泣)

ビギナーズラックとは巧いことを言うもんだ。最初にワンコインでゲットできているだけに、現状を認識する判断が狂う。必ず取れると思いこむ。

ラスベガスのカジノなどでは、ディーラーは素人と見ると最初にぽんぽーんと勝たせるのだそうだ。そうやって金銭感覚が狂ったところで、エモノを骨までしゃぶるわけ。げにバクチは恐ろしき哉。

しかし、これはどう考えても、冬休みに入ったがために、クレーンの設定を厳しくしていったのだろうなぁ。そこで、配偶者と二人、他の客を観察していくことにする。私の腕が悪いわけだけではあるまい。

小さな子供をつれたお父さんは、子供よりもご本人のほうがソフビが欲しそう。数回トライし、小銭がなくったところで両替までするが、やはりゲットできず。

男の子を連れたお母さん。側で男の子が必死に手を合わせて拝んでいるが、あえなく撃沈。

…………明らかにクレーンがゆるゆる状態(涙)。

これはどう考えても冬休み中はダメみたい。ってことで、冬休みが終わったら再度挑戦(ああ、全然学習していないぞ。)でも、それまであるといいけどな、ビッグソフビ。ないほうがいい、という説もあるな。