海法 紀光さん、「エヴァンゲリオンな伝言板」より
シンジの帰還に関して言えば、私がひしひしと感じることがあるのは、自分独りで完結している絶望なんて、どこまで行っても根拠がない、ということです。そういう絶望というのは、O・ヘンリーの「最後の一葉」みたいなものです。
「あの葉っぱが全て落ちた時私は死ぬんだわ」と思っている。そして 一枚一枚落ちる度に、絶望はどんどん深くなっていく。そして、最後の一枚が落ちた。
…生きてる。あれっ?
ってなもんです。その地点から今までのを見返すと、絶望は滑稽に変わり、全ての意味が変わっちゃうんですよね。私は今まで何度かそういうことがありました。破局を恐れて恐れて恐れて、逃避して逃避して逃避しつづけたけど、やっぱり逃げきれなくて破局してしまう。…でも、破局してみたらなんてことなかった、という。そういう気持ちってありません?
シンジは人を傷つける自分を恐れ、人に傷つけられることを恐れていました。少しずつ傷つけ、少しずつ傷つき、もうだめだ。これ以上は発狂してしまう、というところまで追いつめられました。
そして補完空間の中でそれがクライマックスになります。
彼の人を傷つける意志は、アスカに対して完全に解放されます。
アスカもレイも容赦なく彼の欠点を暴き立てます。
彼の恐れていたことは全て具現化します。
そして、最後に今まで恐れ、封印してきた「みんな死んじゃえ」という気持ちを初めて前に出します。
そういう気持ちを出すことは彼にとって「自分が自分で無くなる」ことだと思いこんでいたはずです。発狂する。怪物になる。存在しなくなる。
…ところがそうなってみたら、それでもシンジはシンジだった。
死ぬほど人を憎むのも自分だし、死ぬほど人を求めるのも自分だし、その両方があったところでやっぱり優柔不断ないつもの自分も変わっていないし、という。
そこにおいて、絶望の全てが無化されます。あの実写シーンは、そうして死んで生まれ変わったものの静けさです。戻るのが当然と思うわけじゃありません。何のきっかけもなければ戻れないでしょう。
ただ、絶望の底を見て、絶望から抜け出せること、というのに私は非常にリアリティを感じます。
私が自然と感じるのは、今まで「一人よがりな絶望」に追いつめられた挙げ句、追いつめられて死ぬ…と思ったら、まだ生きてる。その生きてることただそれ自体がカタルシスになって帰って来られたことが何度かあるからです。
絶望について書いてみましたが、同時に希望と欲望にも同じことが言えるでしょう。シンジは補完世界を望んでいた。ひとつになることを望んでいた。ただそれを極めてみると、大したことがなかったというように。
で、それだけじゃ解決しないこともしない部分ももちろんあります。
それがラストへつながるということで。
このCGは、引用させていただいた海法さんの文章に触発されて、描いたものです。多分、私、アリアドネにとってのエヴァンゲリオンというアニメーションは、この作品として一つの終局を得ることができました。
文章の引用を許可していただいた海法さんに深く感謝します。